呼吸する事を教えよう(Waldorfschule)
本質の現れ方現し方
2007の11月?くらいにユーゲントゼミナール(手前が以前所属していたところでいまもその部屋を使わせてもらってやす)に1人の女の子がやってきやした。
彼女は日本でシュタイナー学校の教員と雑用をしていたそうなんですが、一度本当にそれがやりたいか解らなくなって世界旅行をする事を決意したそうな。
旅費も全部自分で稼いだお金の貧乏旅行ということでしたが、昨今稀に見る根性だと思ぇやす。感心しやした。
その動いてみようと思って行動に移す、行動力と計画力。若さという事もあるだろうけど、逞しいなぁ頼もしいなぁ、と思ぇやした。
その彼女から聞かれやした。
「その内容がほんとに大切なんじゃから、別に現地の言葉で勉強せんだってえぇんじゃないの?(岡山弁)」(ちなみにシュタイナーが書いた著書、人智学について)
と言う疑問からの応え。
言語には発生言語からの根本的な違いがあることがありやす。
例えば
理解する。
理(ことわり)を解く(とく、ほどく)
英語では
understand.
under(下に)stand(立つ、ある)
ドイツ語では
verstehen
ver(受動的な動詞などに使われる前置詞)stehen(立つ、ある)
ラテン語を同じ根に持つものでも違うのに日本語だったらもっともっと大きな違い。
必要不可欠な
英語では
necessary
necessitarian(必然的な)
ドイツ語では
notwendig
not(苦しみ、苦悩) wendig(利用しやすい、運転しやすい、俊敏な)
現地の言葉で現地の事を学ぶということ。意味内容を知ることと意味内容を本当に理解する事は違う。背景に何があるのが。あくまでその考えた人のそこに至ったプロセスを見たり感じたりすることを学んでいくことを目指したい。
それが現語で学ぶことの利点と意味だと思ぇやす。
人に何かを話すと言う事と、何かを伝えると言う事は違う。


言葉は情報だけに成り得ると言う事を十分に考慮しておかなければいけねぇと思ぇやす。それが大きな誤解や隔たりを産む原因になってしまうから。


